開祖肥後守平貞能公は、平重盛公(内大臣、小松殿)の重臣でした。
貞能公は、平家が、壇ノ浦の戦いに敗れた後も、平重盛公より託された阿弥陀如来の御霊像をまもり、源氏の追討をのがれて、この地に隠れました。
ここにおいて貞能公は、なおも世をはばかり、名を「定義」と改めました。この地を「定義」、阿弥陀如来様を「定義如来」と呼ばれる由縁です
貞能公は、建久9年(1198)7月7日、御年60歳を以てお隠れになり、そこで従臣達は貞能公の遺命を奉じ、公の墓上に小堂を建て如来様の宝軸を安置し守りました。
宝永3年(1706)、従臣の後裔早坂源兵衛が、自ら出家し「観蓮社良念」と称し、極楽山西方寺を開創しました。
祈願の種類:子授(祈祷・子授人形)、安産(祈祷・腹帯、安産枕)
場所:宮城県仙台市青葉区
0 件のコメント:
コメントを投稿